どうも!ヤマダカイト( @slash_kaito )です。
改めてヤマダカイトって何者?というのを紹介する趣旨の記事です。
実は僕、3年前まで離婚寸前で、子どもが生まれてから1年間は嫁と子と離れて暮らしておりました。
そんな僕の半生をプレイバックしていきます!
それぞれの時期ごとに、キーワードから紐解いていきます。
長いのでお暇な時にご覧ください。
改めて自己紹介
名前と年齢
ヤマダカイトです。2018年3月時点で34歳。
趣味
音楽とギターが好きです。
筋トレは日課。ランニングもたまに。
あと最近はブログ。
仕事
都内の通販メーカーで、デザイナーとして働いています。
あと副業としてデザインしたり、ブログ書いたり、たらりらり。
制作環境
マシン/MacBook Pro(13-inch Early 2011)メモリは10GBに増設2018年4月にMacBook Pro(15-inch 2016)の乗り換えました。
詳しくはMacBook Pro15インチ 2016(整備済製品)を買ったら仕事が倍速になったよにて。
外部モニター/LG モニター ディスプレイ 24インチ
スキル
Illustrator・Photoshop・Dreamweaver・InDesign・HTML・CSS・Wordpress
できること
名刺・カード・DM・フライヤーなど紙ものの制作
単品通販におけるCRM戦略の立案から制作
ロゴを含めた事業戦略・ブランディング
Webサイトの制作
ランディングページの制作
家族構成
現在4歳になる息子、そして僕にはもったいないほどのしっかり者で美しい妻とともに暮らしています。
今でこそ仲良しな3人家族ですが、子供が生まれた当時は離婚するかしないか、くらいの瀬戸際でした。
将来の夢
「家族で海の近く(できれば離島)に移住すること」
「海外リゾートで結婚式を挙げること」
「FJクルーザーかジープ ラングラーでオートキャンプする」
「自宅に音楽スタジオを作る」
どれもこれもお金で解決できそうなので、頑張って働いたり副業している次第です。
あとはとにかく妻が毎日笑顔で、息子が健やかに育ってくれれば何も言うことはありません。
幼児期(1983~1990)
僕はヤマダ家の長男として産まれました。
両親ともに音楽が好きだったようで、その影響からかギターをやりたいけど「ギター」という名前がわからず、四苦八苦したのを覚えています。
また、アートやグラフィックデザインなども両親の影響が大きいです。
幼児期のキーワードは「父・母」です。
グラフィックデザイナーの父
父はフリーランスのグラフィックデザイナー。
僕が生まれる2、3年前までは会社勤めをしていたらしいです。
サーフィン仲間のデザイナーとカメラマンが独立するというので「独立すれば時間が自由になるし、サーフィンし放題じゃん!」と思い、自分も独立したそうな。
世はバブル真っ只中。
独立した方が確実に稼げたと思います。
そんな父を小さい時から見ていたからか、サラリーマンになって働くということが20歳を過ぎてからもイマイチわかりませんでした。
「なんでスーツじゃないといけないの?」
「なんでヒゲを剃らないといけないの?」
「なんで朝決まった時間に会社に行かないといけないの?」
そんなことが、実感としてわかっていなかった時が長くありました。
いや、父は父で仕事には真面目に一生懸命取り組んでいるんですが、外から見た時の印象はかなりの「自由人」。
今でも、その印象だけは変わりません。
かなりの多趣味でして、英語・仏語・ギター・デッサン・ウィンドサーフィン・バイクなどなど、いろんなことに手を出してました。
この父の影響が強くあって、デザイナーという仕事に興味を持ち、今につながっています。
編集者だった母
昔はファッション系の編集者だったそうです。
結婚後は父の仕事を手伝い、営業や経理などをしていました。
とにかくよくしゃべる人で、寡黙な男2人を補うかのごとくよく喋ります。
情報収集も好きで、「どこどこにアレが新しくできた」やら「こんな美術展がやっている」など仕入れた情報を全部教えてきます。
また、かなりの外出好きで、小さい時からかなり色々なところに連れて行ってくれました。
ハワイ・シンガポール・マイケルジャクソンのライブ・六本木のハードロックカフェ・としまえん・こどもの城・子どもの国などなど・・・
今でも休日は大体外に出て、なにかしらしています。
小学生(1990~1996)
両親共働きのため、保育園に通っていましたが卒園後は地元の区立小学校へ。
小学生のキーワードは「お絵かき・バスケ・塾」です。
特技はお絵かき
低中学年の時はマンガにハマってました。特にYAIBAにはまり、休み時間はトレペ使ってYAIBAばっかり書いてました。
風神・雷神の剣とかカッコよくて憧れましたわー。
あとぷーちゃんというアダ名の男の子と、オリジナルの漫画も書いてました。
それが活かされたのか、美術の時間かなんかに書いた絵が区長賞をもらったのを覚えてます。
創作・図工・お絵かきとかが好きだったようです。
バスケで流川みたいになりたかった
高学年に上がってからはバスケにハマりました。完全にスラムダンクの影響ですね。。。
流川みたいな俺!を想像しながらプレイしていました。
あと、運動神経が良かったんで、そこそこモテました(笑)
小学生のモテ要素って運動できる一択ですよねー。
これまでの人生でモテたのって小学生の時くらいです・・・。
受験する気もないけど塾へ
中学年くらいまでは「なんか習い事せい!」と親に言われてプールをやっていたんです。
でもめっちゃくちゃ嫌で、代わりに塾行くから!と言ってなぜか進学塾に行くことに。
周りが受験するから、じゃあ受験するかとなりました。
6年生に上がる頃には平日は塾と家庭教師、日曜日は四谷大塚の日曜テスト。
「全然遊べないやんけ!」
嫌だ嫌だ!と思いながら受験日に。
すると運良く合格。
都内の私立中高一貫男子校に通うことになります。
ここから「やればできる」という妄想により、全然勉強しなくなる人生が始まります・・・。
蛇足ですが、5年生くらいで転校してきた男の子が超絶頭のいい子がいました。
Hくんというんですが、その子が書いた作文が区だか都だかで表彰されて、みんなの前で作文を朗読したんです。
それまで僕は自分のことを、かなりの天才だと思っていたんですが、彼の作文を読んだ時に「あ、これが天才か」と思ったのを鮮烈に覚えています。
内容はうろ覚えですが、暗いトンネルをひたすら走る男の子が光を見つけて引き返す、というショートストーリー。
暗喩として自殺しようと思った子が、人生の救いを見つけ思いとどまった、という話だったのですが、文中に自殺というワードを一切入れずに引き込ませ、読ませる小学生。
思考の深さ、経験の豊富さ、表現力の豊かさに嫉妬し、人生で初めての敗北を知りました。
彼はその後、灘だか開成だかに行ったと聞いていますが、大人になってからの話はわかりません。
官僚とかになってるのかな〜。
中学生(1996~1999)
めでたく都内の中高一貫校に進学したヤマダ少年。
みんなそうですが、知り合いゼロからのスタートです。
キーワードは「世界の広がり・バスケ・バンド」です。
世界の広がり
さて、僕が受かった中高一貫校は、いわゆる御三家・筑駒、早実、慶應といったトップ校の滑り止め的な学校です。
なので、自分のようなほどほどの学力の生徒から、めっちゃくちゃに学力の高い生徒までいて、まさに玉石混交でした。(今は優秀な生徒ばかりのようです)
東京だけではなく、千葉、神奈川、埼玉の関東近県から様々な人間が集まってきていました。
ごっつい悪いヤツもいて、中一のくせに駄菓子屋からお菓子を段ボールごと盗む(しかも何人かで結託して、捕まらないようにピストン輸送で)ようなのも(笑)
家の近くの世界だけで生きてきた僕にとっては、ものすごく衝撃でした。
バスケ
そんな中、ヤマダ少年はバスケ部に入ります。
そこそこの運動神経で中2の時はベンチに入るも、悪い仲間と付き合い出して練習を休みがちに。
さらに、バスケ自体は好きだったんですが、フォークギターをやり始めたのをきっかけにギターにのめりこむことに。
バンドをやりたがっているというやつの話を聞き、中3でバスケ部を退部。
バンド
で、バンドをやり始めます。僕はギター。
ガンズ&ローゼズのギタリスト、slashに憧れて、未だにメールアドレスにはslashと入っています。
やった曲はDeep Purpleやニルヴァーナ、セックス・ピストルズなど、洋楽小僧が大体最初に通る定番のやつ。
コピー曲を中心にやっていたんですが、そのうちオリジナルをやることに。
結構練習もして、そろそろライブでもするか、というこのタイミングで何故かクビになります(笑)
練習不足だったんでしょうねぇ。世の中ってシビア。
突然の解雇にヒマになったヤマダ少年は、スラムダンクを読みふけりミッチーに感情移入。
そう、あの有名な「バスケがしたいです….!」のやつです。
やっぱバスケしてぇなと思い、バスケ部へ舞い戻ります。顧問にはかなり渋られましたがなんとか再入部。
その後、ヘルニアになりかけたことがきっかけで、高1で再度辞めバンドマンに戻ります。
その頃にはバンドを始める人間が急増。同じ学年に20人くらいいましたね。
高校生(1999~2002)
高校生になり、一気にダメな奴にクラスチェンジしました。
化学とか100点満点中5点とかだったな〜。
キーワードは「友人・女子との関わり・大学受験」です。
友人について
高校になると、完全に遊びとバンドだけの生活になります。
中高一貫だったのもあり、ろくに勉強しないまま高校に上がりさらに勉強しなくなりました。
「人の親になって思うことあるある」ですが、両親には大変申し訳ないなーと思います…。
たっけー学費払ってもらったのに。
でも一番の収穫がありました。それが友人です。
やっぱ思春期の6年間一緒に過ごすって、かなり濃密ですよね。
僕の人格はここで形成されたと言えます。
中高時代の友人たちは、それぞれ面白いキャリアを持っていて自分の仕事に邁進しています。
会社経営者、ちびっこたちに大人気のミュージシャン、サラリーマンしながら海外ツアーしたりするバンドマン、アニメのプロデューサー、ドキュメント番組のプロデューサー、会計士、カメラマン、テレビ美容師、夫婦揃ってのミュージシャン、webライターなどなど。
音楽やってた友人が多いからか、ミュージシャンが多いですね。
いい意味で意識が高い連中なので、会うたびに刺激を受けます。
中高時代はみんなわりとチャランポランだったのにな〜(笑)
女子との関わり
中高一貫の男子校だと、女子との出会いって全然なさそうですよね。
ところがどっこい、学校にいないせいか、街で必死にナンパしていました(笑)
合コンとかも結構ありましたし。
近隣の女子校の友達は結構多かったと思います。
ただそうなると避けられないのが、好きな子が重なることで起きる人間関係のトラブル。
「A君の彼女をB君が奪おうとした」
「同じ人を好きになって、口論になり旅行先で揉めた」
「C君の好きな人と関係を持ってしまった」
「付き合った彼女の元カレは同じ学校のD君、その前はE君」
とかとか。。。
多分知らないことも沢山あるので、氷山の一角だと思いますが(笑)
そんなことも今では笑いあえる、ステキな友人たちです。
大学受験
さて、部活をやめてギターするか遊んでばっかりだった僕にも大学受験が近づきます。
高2の時に付き合っていた彼女が目指していたという理由で、上智大学志望に。
偏差値50半ばくらいしかないのに 笑
そして、めっちゃ勉強するわけでもなく、普通に遊び呆けていました。
学校には女子がいないので、塾で女友達を作ったり。
で、結果全て不合格。滑り止めの日東駒専も全て不合格でした。
見事、浪人生にレベルアップ(?)します。
大学生(2003~2007)
1年間の浪人生活を経て、見事ほどほどの大学に合格。2教科受験でしたが。。。
大学生のキーワードは「軽音楽サークル・美学芸術学・就活」です。
軽音楽サークル
大学生になったら絶対に音楽サークルに入ろうと思ってたので、入学後いくつかのサークルを見て回ろうとしていました。
すると、とある軽音楽サークルの1人に捕まり、そのまま半強制入部。
「ガンズが好き?あぁもう絶対それならウチだよ!!」
と言ったこの人が、まさにガンズ好きの部長でした。
思い返せばサークルにいる間、国内外幅広く音楽を聞き、いろんな曲をコピーしました。
すぐに思い返せる有名どころだけでもディープ・パープル、椎名林檎、東京事変、メタリカ、Char(Psychedelics)、cocobat、smorgas、Blackey Jet City、レッチリ、小沢健二、パンテラなどなど・・・
確か4ヶ月に1回くらいは何かしらの名目でライブがあるんですよね、大学の軽音楽サークルって。
結構曲を覚えるだけでも大変な作業なんですが、何を考えているのか1回のライブで2バンド出ることもあったりして(笑)
サークル室とは別に練習室もあったんですが、そこで練習して、家帰って練習して。
そう考えるとギターばっか弾いてましたね。
特に東京事変は、卒業後もライブでやったりして楽しかった思い出があります。
ずっと一緒にやってたボーカルの女の子が、もうビックリするほど上手くて。
大学生活の一番の思い出です。
美学・芸術学
さぁようやくデザインに関わりのある話が出てきました(笑)
僕はもともと高校の時から倫理が好きで、哲学科を目指していました。
もっとさらに遡ると、小学生の頃から好きでした。
なんせ学校に「ソフィーの世界」をもっていって読むほど。
ソフィーの世界とは
物語の大半は、タイトルとなっている主人公ソフィー・アムンセンと謎に満ちた人物のアルベルト・クノックスの対話であり、その間に不思議なエピソードが織り込まれている。ミステリー要素を多分に含むファンタジー小説の体裁を取っているが、 原題には “Roman om filosofiens historie” という副題が付いており、大変優れた哲学史の入門書で、難しく構えることなく西洋の哲学について触れることのできる秀逸な作品であると評価される。
引用:Wikipediaより
「ソフィーの世界」ってめっちゃくちゃ分厚いんですよ。
ランドセルに入れたら半分以上埋まるほどの厚さ(笑)
それを小学校の時に愛読していました。ほとんど理解もできていなかったとは思いますが。
「なぜ人は生きるのか」「なぜ勉強しなきゃいけないのか」「どうやって人と上手に関わっていけばいいのか」みたいなことばっかり考えていたので、哲学科に入ろうというのは自然なことでした。
大学生になって「どんな授業なんだろう」とワクワクしながら受けた基礎哲学Ⅰみたいな授業の感想はというと、「ムッチャつまらん」。
倫理って割と哲学を実生活に落とし込んでいて、行動心理学とかに近いものがあると思うんです。
でも基礎哲学ってロジカルすぎて、当時はよくわからなかったんでしょうね。
そして段々と哲学に対しての興味を失います。
その代わりに、3年生から選択できる美学・芸術学コースに興味を持ちました。
これは美術史を学びながら、「美」の本質を追求していく学問。
ローマ・キリスト教・中世・ゴシック・ルネサンス・バロックなど現代美術に至るまでの歴史を学びつつ、特定の画家の内面まで掘り下げて作品の批評をします。
美学クラスの担任は、その世界では有名な教授でした。
中でもウィリアム・モリスに代表されるアーツアンドクラフツ運動からのバウハウス設立までの一連の流れが好きで、そのあたりをよく調べていたのを思い出します。
その中で、アルフォンス・ミュシャなどの美麗なポスターデザインに惹かれ、グラフィックデザインというものを意識するようになりました。
卒論も「グラフィックデザインの成り立ちとその歴史」みたいなタイトルで。
あ、そういえばウチの父親グラフィックデザイナーやんけ、ちょっと教えてくれーいみたいな(笑)
見て学ぶだけじゃなくて、自分で作りたくなってみたんですね。
ちょうど大学の入学祝いに買ってもらったのはiMac。
いわゆる大福Macと言われるアレ。
コレです。
Illustratorをインストールして使い方を徐々に学ぶようになりました。
ですが、この時はまだデザインを職業にするとかまでは微塵も考えていませんでした。
むしろ「働きたくないでござる!!働いたら負け!」とさえ思ってました(笑)
しかし、時は残酷。
就職活動の時期が近きます。
就活
大学受験の時もそうでしたが、とにかく理想だけは高いヤマダ青年。
とりあえず本・漫画・音楽が好きだから、という理由で人気が激高の出版社やメディア関連の会社を受けます。
中でも大好きだった雑誌「relax」編集部があるマガジンハウスに行きたくて行きたくて。
書類選考の段階で即落とされましたが(笑)
まあ、よく考えればそうですよね。
周りの話を聞いていると、やれ海外留学が、とかボランティア活動が、など目に見えるわかりやすい「体験」を話していました。
でも僕の大学生活はギターとサークルだけ。
バイトもしていましたが、コロコロ変えたりしていたので。
そもそも就職活動に対しての意識が低く、自己分析も適性検査の勉強もまったくしていませんでした(笑)
そりゃ受からんわ。
ふてくされたヤマダ青年は、友人と麻雀にふけります。
毎日やっていましたね。
今でも年に一回、必ず麻雀をするメンバーとともに、最大で36時間ほど打っていた時もありました。体力あったな―(笑)
夏休みなんか毎日やってたんじゃねーかというレベル。
結局、就職先が決まったのは卒業式前後。
しかも聞けば誰しも「うわぁ・・・」という超絶ブラック企業です。
そんな体たらくにもかかわらず、卒業ライブは自分のサークルで2バンド、他サークルでも1バンド出た挙句、オリジナルTシャツのデザインしていました。
暇人か(笑)
社会人
働くことにも意味を見出したいクソ生意気なヤマダ青年も、ついに社会人に。
今考えると自分という人間を知らなさすぎましたね。
キーワードは「ブラック企業を経てホワイト企業に・嫁との出会い・デザインへの憧れ」です。
ブラック企業を経てホワイト企業に
1社目 某営業会社(2007)
採用時期が遅かったせいか、なぜか僕は5月入社でした。
あとから考えれば離職率が半端なく多いので、通年通して採用している会社だったんです。
そんなことも深く考えずに、約1ヶ月のモラトリアム生活を最大限楽しむべく、寝たりゲームして漫画読んでいました。
そして研修合宿が始まりました。
これがまぁスゴい。ゴリゴリの営業会社なので、教育も軍隊式なんです。
一度それまでの価値観を壊して、まっさらな状態にしたうえで新たな価値観を植え付ける作業。
基本的に部屋もレクリエーションも全てチームで行ない、1人ができなかったら連帯責任を取るようなシステム。10kmマラソンとかもしましたね。
一番凄かったのは最終日。
B’zが大音量で流れる中、チームメンバーそれぞれの悪いところ・ダメな所を大声で指摘するという謎のレクリエーション。
人格否定されて中には大声で泣き出す人もいました。
嗚咽やすすり泣きが響く中、最後はみんなで「俺たち頑張ったよな!」とか褒めあいながら、なぜか抱き合って合宿は終了。
ずっと心の中で「新興宗教かよ・・・」とか思ってました。
行った人がこれ読んだら、どこの会社か一発でわかっちゃいますけどね(笑)
そんな会社なんで、入ってみてからも奇想天外なことばかり。
・入社2日目で池袋勤務から千葉勤務に。理由「君はコミュニケーション能力が高そうだ!」
・残業は無い、みたいなテイで定時になるとタイムカードを押させる。そしてそのままデスクに戻り、23時くらいまでテレアポし続ける。
・挨拶、お礼、返事は全て「ゾス!」便利な共用語(笑)ゾスで検索すれば、どこの会社かわかっちゃいますので検索しないでくださいね(笑)
・途中から来た拠点長が何故か20歳。しかも出で立ちがウシジマくんの小太りバージョン。部下には32歳もいました。なんか言われたら「ゾス!」
・営業成績が未達だと椅子が飛んできたり、テレアポ中にデスクを蹴られる。
・拠点長の家でチンチロリンをして、拠点長に勝ったらブチ切れられる。
・頭が丸坊主でYシャツをこれでもか!というくらい開け、これでもか!というくらいズボンを下げてスーツを着る千葉のヤンキー社員。
みんな人間的にはめちゃくちゃおもしろい人ばっかりでしたが、仕事自体は何の面白みも無いし、興味も持てないしで1年経たずに辞めました。
2社目 千葉の某製造会社(2007~2009)
たまたま営業に行った先の会社の営業マンに「そんなツライ会社なら辞めてウチ来たら?」と言われ、流れに身を任せ転職。
なぜか製造工場の人たちには内緒で僕を入社させたらしく、身の置き場がないため、社長と懇意にしているデザイナーのところに机を置かせてもらうことに。
このデザイナーの人もワケわからんほど厳しくて人格否定もかなりされたので、仕事ってなんでこんなツライんだろうと毎日思っていました。
あと東急ハンズで売り子させられたりしました。
今考えると結構特殊な環境だったんですかね。
その後、デザイナーに放り投げられたので、もう1つの会社でやっているマッサージ屋のスタッフにさせられることに。
1つだけ良かったのはマッサージが上手になったこと。妻にも喜ばれるので、これだけはありがたいなと今でも思います。
しかし、同僚の女性はかなりヒステリックで、日によって機嫌がコロコロ変わるタイプの人。一緒に働くのが本当に苦痛で、毎日辞めたいと思っていました。
そう思っていた所、3年目くらいでしたかね、なんやかんや理由をつけて首に。
確か「思ったように成長をしなかった」とか「会社の売上に寄与しなかった」とかだったかな?
今自分が後輩を持って思うのは、そういう教育をキチンとしなかったからだろうが、と思いますが。
当時は首にしてくれて、逆にありがたかったです。
失業手当すぐもらえるし。
そして、ここからハローワークに通い始めます。
3社目 都内 某地域情報誌(2009~2011)
ハローワークで良い求人を見つけるのは、本当に大変なことだと以前の記事でも書きました。
【中途未経験からグラフィックデザイナーになる方法】vol.2 求人サイト編
砂漠で砂金を見つけるくらいの作業感だと、思っています。
そして僕がハローワークで見つけた求人は、砂金じゃなく砂のほうだったようです。
東京南部の地域情報誌の編集という職を見つけ、面接を受けたところ合格。
仕事内容は、取材・撮影・原稿作成・紙面デザイン・広告デザイン・冊子の配達などでした。
この会社についてちょろっと下の記事でも書いていますが、とにかく社長の性格がパンチ効いていたんですね。
転職に悩むデザイナーにもMidworksをオススメする3つの理由
僕もわりと生意気で、納得いかないことに対して突っかかっていってたのでやりにくかったんでしょうね。
ここも2年弱くらいで、難癖つけられて首になります。
良かったのはInDesign・Illustrator・Photoshopの操作に詳しくなったこと、取材力がついたこと、あと自転車メッチャ漕いだので脚力がついたことですかね(笑)
4社目 都内 某デザイン制作会社(2011~2016)
「もうハローワークで探すのはやめよう!」「ちゃんとデザインの仕事に就こう!」と意志を固めたヤマダ青年。
この時27歳くらい。
改めてキャリアをスタートさせるのには、かなりギリギリでした。
【中途未経験でグラフィックデザイナーになる方法】スタート編 | Rinkai-designの記事でもありましたが、とにかく潜り込んでデザイナーになったろう!と思ってました。
そしてハローワークではなく、デザイナー専門の求人サイトを使って探すことを徹底。
おかげで大きなクライアントを直で抱える、某デザイン会社に入れました。しかし、入ってみて愕然。
僕は全くデザインができない、ということがわかりました。
つまり、最低限のクオリティコントロールができていない、ということ。
でもどうやってやればいいかの正解も、自分に何ができて何ができなくて、何がわからないのかもわからない。
完全な手探り状態でした。
小さな会社なので、大手にあるようなOJT的な社員教育は皆無。
自分で勉強しない限りは、上手くなりません。
作ったものを社長に提出したけど、締め切りの関係でほぼ作り直された状態でクライアントに提出する。
こんなことがずっと続き、悔しくてしょっちゅう泣いていました。
根が負けず嫌いなのです(笑)
計4年近くいましたが、本当に上手にデザインできたな、と感じたことは一度もありません。
デザインの仕事が楽しくない、つらいと思ったら | Rinkai-designでも書きましたが、転機になったのは新ブランドの立ち上げ事業に関わった時です。
デザインそのものよりも、企業の「戦略策定」「ブランディング」「進行管理」が自分に向いている・好きだ、というのが理解できました。
企業戦略やブランディングをする上で「作って納品しておしまい」という広告制作だけをやっていたのでは、本当のノウハウは蓄積されないんじゃないか。
制作後も売上の推移を見なければ、企業の課題解決はできない。
制作会社よりも事業会社がいいかも・・・と考えていた所、友人の会社からお誘いが。
まだ、今の会社でスキルも上げられるし、何よりようやく信頼されつつあるクライアントを手放すのは・・・と相当悩みましたが、この時には既に結婚して子どももいたため、ボーナスもある今の会社に転職しました。
5社目 都内 某サプリメーカー(2016~現在)
今の会社です。
詳しい経緯はインハウスと制作会社のデザイナーはどっちがいい?経験したメリット・デメリット | Rinkai-designにも書いていますので併せてご覧ください。
今現在している3つの仕事についてと、仕事感については後述します。
妻との出会い
話が前後しますが、妻とは27歳くらいの時に出会いました。
妻は年齢が6個上。出会った当時は既婚者でした。
大学の先輩のライブで出会い、離婚しそうだという話を聞いて猛烈にアタックしはじめました。
その後、離婚が成立。
どうやら離婚をするというのは、かなりの虚無感があるらしく10年以上の付き合いがあったらしいので、それはなおさらかもしれません。
その空いた虚無感を埋めるのに、無害そうな僕がピッタリだったのでしょう。
全くタイプでもなく、金持ちでもない僕と付き合うようになります。
その後、僕の不甲斐なさ・将来性のなさから一回別れ、また再度付き合い始めた次の年の2013年3月に沖縄でプロポーズ。
そしてその地で偶然にも子種を仕込みます。
言い方(笑)
結婚後
子供ができるとわかった時、僕は嬉かったんですが妻は複雑そうな顔をしていました。
まだその時は「全幅の信頼を置ける相手」としては見られていなかったんだと思います。
結婚後のキーワードは「別居・子供・仕事感」
別居
「子供を産むなら絶対に無痛分娩じゃないと嫌だし、長崎じゃなからんばイヤ!」という一声で、出産1ヶ月前のクリスマス明け、妻は1人長崎へ飛び立ちます。
2人で借りた家も解約し、僕は実家へ。初めは出産後3ヶ月くらいで戻る予定でした。
さぁいよいよ産まれるか!という時に事件が。
もともと妻に連れていかれハマったパチスロで、つい….その….借金を作ってしまいましてね….(小声)
それが嫁にバレました。
出産した日に。
虫の感というやつでしょうか。
そこから1年間、妻は帰ってきませんでした。
月一回、格安航空チケットで長崎に来ることは許されましたが。
でも、離れて暮らしていると争いが絶えないものですね。
妻は妻で、初めての子育てにイライラしっぱなし。
僕は僕で、4社目の制作会社にいたときで忙しく朝から晩まで働いていました。
なんとか謝り続け、家を探し、出産1年後にようやく帰ってきてもらえました。
それでも妻の怒りはまだ収まっていませんでしたが・・・。
そこでようやく、どうすれば妻が僕のことを信頼してくれるかを真剣に考え始めました。
そして、実行したのは以下の3つ。
1,嘘をつかない
2,言われる前にできることはする
3,仕事を超頑張る
1については当然ですね。
そもそもあんまり上手に嘘つけないんで、隠しごと自体しないようにしています。
2については、一緒に暮らしている上で「してもらったら助かるわ〜」みたいなことを率先してやる、ということですね。
お風呂洗いとか。洗濯とか。
これでもう妻に怒られない!仕事から帰った後の夫がすべきこと | Rinkai-design
家族計画をたてるとかもそうですね。
もう妻だけに家計の管理を任せない!ライフプラン表の作り方 | Rinkai-design
3については、家庭のこと・育児のこともしっかりやりながら、仕事を頑張っている姿を見せました。
例えば、「仕事でこんなことがあって、上司(クライアント)に褒められた」とか「将来こういう仕事をしたいから、今これをやってるんだ」とか「ブログを始めたのはこんな理由からなんだ」とか、『将来のことをしっかり考えて今こういう行動をしているんだよ』という話をすると、とても安心されました。
妻も徐々に「一家の長として、責任感ある〜!」と感じ始めたと言っていました。
今考えると、筋トレを始めたのも効果が大きかったですねー。
筋トレ始めたら肩こりがなくなった話 | Rinkai-design
身体を鍛えだすと、自信がつくので妻に怒られてもめげなくなります(笑)
俺のほうが強いし!いざとなったら勝てるし!みたいな。
妻は身長170cmあって、以前取っ組み合いした時に、尋常ではないパワーに驚いたものです・・・。
そんなこんなありまして、ようやく子どもが2歳になる頃には信頼値がマイナスからゼロくらいの状態に戻りました。
子どもが4歳になった今現在は、完全に信頼されている状態です。
マイナスから100%まで戻ったと言えます。
頑張ったな〜。
そしてよく妻も耐えたな〜。
こうして、今は仲良く暮らしているというわけです。
ここから学んだ僕の夫婦ゲンカの攻略法は、「とにかく謝り倒して、自分の非を完全に認めた上でそれを直す。そして機嫌が戻った妻と冷静に話し合う」です。
妻が怒ってる時って、正論言ってもさらに怒りが増すんですよね。
だからもう、とにかく謝り倒す。
夫婦ゲンカが絶えない、という方はぜひ使ってみてください。
あと最近思うのは、ボディタッチ大事だなーということ。
ウチでよくやるのは、肩から肩甲骨までをお互いにグーッとマッサージする方法。
マッサージって気持ちいいし優しい気持ちになれるので、なんか相手のことも嫌いになれなくなります(笑)
オススメ。
プロポーズ後、すぐに子どもできるとわかったのもありますが、色々な理由から結婚式が挙げられませんでした。
ですので、なるべく早く家族3人で結婚式を挙げてあげたいと思っています。
そのためには金がいる・・・!!
頑張って稼がないといけません。
子ども
とにかく見ていて面白いです。
本人はすべてにおいて真剣なんですがね。
何をするにも常に全力で、毎日成長している姿を見ると「あぁ父も頑張ってもっと成長しないとな・・・」と思います。
以下は、君への手紙。
「0歳の時」
初めて君を抱いた時、僕は泣いていた。
君に会えた喜びと、妻を裏切ってしまった悔しさと、もう君に会えなくなるかもしれない恐怖で。
0歳の時には、月に一回しか会えなかった。
見るたび大きくなっていくので、「早く一緒に暮らせますように」と何度も願った。
「1歳の時」
ようやく一緒に暮らすようになった。
でも今までは祖父・祖母・母だけの暮らしだったのに、急に知らない男の人と住むことになったので、君はとても怖がったね。
ママじゃないと寝ないし、ママじゃないとご飯も食べない。
1年間のブランクがこんなに大きいとは思わなかった。
それでも徐々に懐いてきてくれたのが嬉しかったよ。
「2歳の時」
少しずつ心を開いてくれたけど、それでも寝る時はママじゃないとダメだった。
ママが仕事の時は、2人で色々なところに行ったね。
近くの公園、動物園、遊園地。
たくさんのことが出来るようになってくる君を見るのが、何よりの生きがい。
「3歳の時」
意志の疎通ができるようになって、色んな話をしたね。
前髪ぱっつんで底抜けに明るい君。
このままスクスクと育って欲しいな。
寝起きはもうちょっと機嫌がいいと嬉しいね。
「4歳の時」
反抗期なのかな。
すごい叩いてくるね。
まさか父親4年目にして、息子にビンタされるとは夢にも思わなかったよ。
友達は絶対に叩かないでね。
あと夜は早く寝るように。
「大きくなったら」
今のまま、明るくひょうきんで周りを笑顔にさせる素敵なキャラクターでいてね。
周りの人を大事に。
自分も楽しく、周りの誰かを幸せにするような仕事につけるといいね。
現在している3つの仕事について
会社の仕事について
今現在、自分の仕事で一番感心が高いのは、自社ブランディングと組織形成とCRM。
一応デザイナーではあるんですが、それ以外の仕事も勝手にやっています。
自社ブランディングは、提案したばっかりで何も動いていないですが、今後の会社のあり方を定義する大切な仕事だと思っています。
組織形成は、自分が今までやってきたことをそのまま後輩に降ろす感じ。
「結果を出すリーダーは動かない」にある「壁マネジメント」を実践して、意識を変えるのではなく行動を変えさせています。
CRMはようやく部署を横断してチームを作ることできたので、色々な施策を試していくところ。
少ない労力で、大きな売上を継続的にたてることができるのでやり甲斐があります。
デザインという仕事自体も好きなんですが、世の中にはキレイなデザイン・かっこいいデザインできる方がたくさんいます。
僕のような中途でデザイン業界に入った人間がその領域にたどり着くには、相当の時間がかかる。
その間に、他の人達はさらに素晴らしいデザインを作れるようになる。
完全にイタチごっこです。
そう考えた時に「デザイン力という1つだけの武器で戦ったら勝ち目がない。デザイン力に違う能力をかけ合わせないと、付加価値の高い人間になれない」と考えました。
これは「藤原和博の必ず食える1%の人になる方法」に強く影響を受けています。
だから僕はブランディングやCRMといった、デザインのさらに上流の工程からタッチしていくようにしています。
必要になれば自分で手を動かしますし、誰か別のデザイナーにお願いしてもいい。
ただマーケティングはもちろん、ビジネスについての深い理解が必要になってきます。
副業について
最初はのきっかけは「お小遣いが少なすぎて何もできない・・・。せや!副業したろ!」ということでした。
しかし、やってるうちに本業へのフィードバック・デザインスキルのアップ・仕事効率化などたくさんのメリットを感じ始めます。
次第に副業での収入も上がり、妻からお小遣いをもらわなくなりました。
この頃から妻に怒られることが減り、対応が優しくなってきた気がします(笑)
もちろん、今まで知らなかった事業や職業の方と交流できるというのもポイントです。
僕自身の特長として「誰かの役に立ちたい」という想いが強くあります。
デザインというツールを通して直接的にビジネスをサポートできるのが、非常に嬉しくやりがいがあります。
クライアントの想いやビジョン、ストーリーを伝えられるデザインができるように、今後も精進していきたいです。
ブログについて
ブログを書くのも、最初はブログ飯に憧れて始めました。不純(笑)
ですが、徐々に人を説得するための文章術や、ブログを「ひとつの事業」と捉えた時のマーケティング戦略やブランディング戦略を考えたりするトレーニングの比重が強くなっています。
試行錯誤しても、なかなか上手いことPVが上がらなかったり。そこも面白いところです。
もはや実益とスキルアップを兼ねた趣味となっています。
記事の内容自体も、「中途未経験からグラフィックデザイナーになる方法まとめ」のように、さんざん回り道の人生を送ってきたからこその反面教師として誰かのお役に立てるのでは、と思い書いています。
しくじり先生的な。
今回のまとめ
僕は今年2018年で35歳になります。
この歳になってようやく、どんな風に働きたいか・どうなっていきたいか・将来的に何をしたいか、というのがわかりはじめました。
今はまだスタートしたばかりなので、前を歩く人との距離に焦ったりもしますが、妻の言いつけ通りマイペースに進んでいこうと思います。
このブログはそんなヤマダ中年(もうそんな年なんですね)の、遅めの成長記録でもあります。
道に迷ったり、辛い思いをしている世のデザイナーが少しでも幸せに、そして僕自身も幸せになれればいいな、と心の底から思います。
引き続き、当ブログ「リンカイ-デザイン」をどうぞよろしくお願いします。
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